渋谷イメージフォーラムにて
ジョナスメカスについてほとんど予備知識ないままに鑑賞した。
この映画を観た後、私は自身が辿ってきた幾つもの場所や光景や出来事を思い出さずにはいられなかった。
そんな、そんな言葉を書けたら良かった。
しかし、残念ながら私はそんなささやかな想像性も慎ましさも持ち合わせていない人間だった。
今回の上映プログラムに関するチラシにジョナスメカス自身の言葉としてこう記してある。「私たちこそが全てに対する基準なのだ。そして私たちの生み出すものや芸術の美しさは、私たち自身の美しさ、魂の美しさに比例する。」
映し出される。
故郷を追われた人、友人、デモに参加する人、政治活動家、弟、子供、凍える「平和のための女達」、タイニーティム、ジョナスメカス、、
「すべてはふつうだ、まったくふつうだ。」
彼はこの映画の中で、映し出す人びとの素性を明らかにする事を忘れないが
「ニューヨークの夕ぐれ、一人の難民が何を考えているか、誰も知らない」
人である事の計り知れ無さを
「おお、歌え」という
通り過ぎる全ての事象へ限りない敬意を持ってこそ、「ずいぶん失ってしまった」記憶と対峙する彼の言葉は、いつまでも瑞々しい。
入口で、コメンタリー全文が配布された、良かった、何度も読もうと思った。
(字幕を入れることは著しくオリジナリティを損なうという彼の意向、真っ暗の画面に白い字幕が浮かび上がる事の無粋、それでも、今回の上映で、字幕をつけ、映像と共に彼の言葉を正しく理解出来る仕組みがあって、自分のような無学な人間には良かった。)
映画が終わった後、すぐに翻訳家の飯村昭子さんのトークが始まった。
1960年代後半から現地でジョナスメカス本人と交流があり、彼の才能と実験映画界における影響力、貢献について、当時のエピソードを交えてお話して下さったが、彼への敬意が強い為か、上手く話が展開せず、堂々巡りするような場面があった。
飯村さんがシネマテークで一人座席に座っていたら突如眼前に花が現れ、後ろを振り返るとメカスがいたという話を最後にされた時、カメラの前で戯けて見せた彼のあの顔、そこで笑い合う彼らの姿が目に浮かび、何故だか映画の続きを見たように、私は嬉しい気持ちになったのだ。
土曜日の午後3時。