回想

回想の練習/備忘録

麓健一 2019.7/5,7/7 live at 七針

一昨日に引き続き、今日も七針で麓健一のライブを見た。

2017年11月のライブ以来、表立った活動はなく長い沈黙を守っていた彼が、イカナイト 、 タコアフタヌーン という名を冠したワンマンライブを二日間に渡り企画した。

 

 

7/5

1.うぐいすの谷

2.バリケード

3.ダンスホールの雨

4.踊り続けて

5.郵便 #2 

6曲目以降は近年演奏されている未発表曲

 

1日目はジャズマスターを使用した弾き語り。歪み用のエフェクターを二台用意し、それらは主に曲間で使用された。

ギターリストではない、ボーカリストが弾くエレキギターの音色、フィードバック。不鮮明さ、歌に阿る音色。

彼がエレキギターを使用する事は稀だが、伴奏する手段としてアコギをエレキギターに持ち替えたという以上の相関は無いように感じた。

 

2ndアルバムであるコロニーを発表した際のネット上でのインタビューか何かで彼は、豊田道倫氏の言う「歌を作る体と歌を歌う体は違う」という感覚を自身も知覚したと語っていた。

 

彼の声に歌に聖性を見い出す人は少なくないが、彼のギターワークに言及する人は少ない。

歌が強すぎるからだろうか。

収拾がつかなくなりそうだ。

ただ単に私は彼がライブで鳴らすギターの音にいつも不満を感じているのだろう。

 

美化に収録された曲達は、やはり良かった。

未発表曲群については、例えば「ヘル」や「ペンタゴン」は最終バースのメロディや歌詞の変更が過去見られたが、この日は全ての曲が(エフェクターによる歪み、フィードバックは別として、)同様のアレンジのまま演奏された。

 

 

7/7

1.spaceship? 未発表曲

2.ロンリネス凧

3.九月 谷川俊太郎の詩に曲をつけた曲

4.椿事 未発表曲

5.二月の星 未発表曲

6.幽霊船  未発表曲

7.パフ

8.Fight Song

9.ピーター

10.葬列

11. 曲名不明 未発表曲 (2015年5月豊田道倫氏と七針で共演した時に演奏した曲)

12.たたえよたたえよ (歌唱なし)

13.ヘル 未発表曲 

14.ペンタゴン 未発表曲

 

この日、彼はアコギを使用した。

そして大半の曲でゲストミュージシャンが参加し、曲に色を添えた。

コロニーに収録された曲群については言うまでもなく、ゲストミュージシャンの演奏は奏功していた。

ただ個人的にコロニー収録曲のいくつかは、どうしても相容れないものを感じ、この日の演奏においても退屈と思う瞬間があった。

 

「ロンリネス凧」は、とても好きな曲なので、聴けて良かった。

原曲では厳かな印象すら与える特徴的な裏声を存分に響かせていたが、この日は原曲から1オクターブ下げて歌唱され、ややラフな指弾きの伴奏と相まって、素朴な愁いや親密さを感じさせるような演奏だった。

 

そういえばこの曲の歌詞は、他の曲とは少し趣きが異なり、「あなた」や「誰か」は登場しない、語るに足る出来事も感情も存在せず、孤独と向き合う事を静かに歌っている。

 

群を離れて自身との対話を繰り返し「おかしくなりそう」な世界を紐解きながら、いつしか喜劇へと誘われるような悩ましい経過を辿る。

そこにはコロニー製作時における彼の在り方の一端を窺えるように思う。

 

 

11曲目は、2015年5月豊田道倫氏と七針で共演した時にも演奏されたが、その時にはなかった印象的な後半のバースを加え、この日演奏された。

 

彼の工夫を凝らした多彩なコードワークの中でパワーコードが前面に用いられた曲は少なく、「うぐいすの谷」と「西海岸」位だろうか。

この曲では前半のバースでパワーコードが用いられた。

 

杖が無ければ歩けない僕の体、舟が無ければ帰れない私の体、と歌った後のバースでは、こじ開けるような鮮烈なメロディをもって「新しい合図」について歌われる。

 

新しい合図で別れを伝えて

新しい合図で答えを教えて

早く早く

 

最後に歌われる言葉は、「生きてみせて」なのか「言い切ってみせて」なのか、定かではないが耳に木霊する。

 

マイナー7thを積極的に取り入れたと思しき一連の未発表曲群とは異なり、美化の時期に見られたコードワークや精神性がこの曲には色濃く滲み出ていたように感じた。

しかし、言わば近年演奏されている未発表曲群に見られる捻れた寓話性らしき感覚と、美化の時期に見られた生々しい情感が混じり合っているにもかかわらず、かのメロディは彼が見つけた新しい文体のように感じられ、その印象はこの二日間にあって一際鮮明に記憶された。

 

両日共に「ペンタゴン」を最後に演奏し、余韻を残さぬよう演奏後すぐに明かりが点けられた。

 

 

この日、彼は、「美意識は嫌悪の集積」という言葉を知ってから美しさとは何か分からなくなった、と話した。

 

確かにある地点において、彼の美意識に対する困惑は、表層的な美を否定する文脈をいつしかその創作物の中に生み出していたが、むしろ彼自身が語るようないくつかの転換期を過ぎ行く中で、その類の問いには既に彼の中で返答がなされたのではないかと思う。

 

しかし彼はこれからもしたたかに目に余るものを見つけては、それらを持ち帰る事を繰り返すのだろう。

 

 

コロニー発表直後、彼自身がインタビューで語ったように、「この声はある感情的な響きを持ってしまう」「歌を構成していた要素の中でもとりわけ大きなものが感情だった」という確かな自覚を経て、彼は喜びや悲しみといった情緒的な問いではなく、むしろ理性から発せられる要請に耳を傾けながら、聖性を湛える自身の資質と知性を拮抗させ、歌が意図せず悲痛に響いてしまう事を慎重に避けてきた。

 

コロニー発表以後、彼は創作の端緒を混乱や煩悶とは別に求めたように思える。

理性をもって情緒や美を遠ざけ、彼は傍観者としてままならない世界を生きる何者かを歌に書き写し続けた。

そして彼は現実世界においても傍観者たり、「文化抱擁」なる自身のサイトも閉じられ、ただの怠慢なのか或いは主体性を敢えて隠蔽しているのか、先行きの見えない活動を続けている。

今回の二日間に及ぶワンマンライブは、機材費調達の為に企画したという。

 

 

曰く「筋肉期」「借金期」を経て現在「ラブユアセルフ期」にある彼の一年半に及ぶ不在の理由を推察する事は難しいが、「新しい合図」にまつわるメロディを聴いて私は、彼がいま自身の聖性たる資質と理性の均衡をもう一度定義し直そうとしているように見えたのだ。

そしてそこに結実の一端を見出したからこそ、彼はこのライブを企画したのではないだろうか。

 

 

 

随分長くなってしまった。

待望の日々に展望は延期された。

しかし意外と色んな事が思い起こされたらしい。

彼に対する認識を整理したくなったのは、そこに小さな予感めいたものを見たからかもしれない。