回想

回想の練習/備忘録

戦火を超えて 20200323 渋谷シネマヴェーラ

昨年、シネマヴェーラのソヴィエト映画特集で、沢山の素晴らしい映画を観る事が出来た。

 

今年は、映画館に足を運ぶことがほとんど出来なかったが、先日、炎628 を観る事が出来た。

 

炎628は、私には「徹底したリアリズム」を持って描かれた作品とは思えない。

主人公たる少年と村人達の悲壮感や虚無感に満ちた表情を繰り返し映し出す演出よりも、むしろ蹂躙された村で唯一暴行を受ける事なく放置された認知症らしい老女の微笑みにこそ、捉えがたい真実めいたものを感じた気がしたから。

それ以外は通り一遍、戦争における残虐性を大仰な扇動的な演出で描いているだけだと思った。いや、通り一遍だからこそ、平たく「徹底したリアリズム」なんて評されるのだろうか。

 

 

今日、戦火を超えて を観た。

素晴らしい映画。

印象深い場面があった。

極寒の戦地に楽士隊が慰問の為にやって来る。少女が嬉々として新年の始まりを告げ、そして眠る兵士達を前に楽士隊がグルジアの音楽を奏でる。慰問団一行の少女が手を叩いて一番に楽しんでいる。

それは儚くて愛おしいような特別な時間で、ああ映画だ、と思った。

 

笑える場面もたくさんあって、

戦地に行って匍匐前進しながら、突然土の良し悪しについて語り出す爺さんに笑ったし、ぶどうを戦車で踏みつけた兵士を思いっきりぶった時も、殴り方が手加減ない感じで面白かった。

 

あと、最後の方、銃撃戦の合間に兵士達が交わした言葉。良かったな。

「何か良いニュースはないか」

「もうすぐ春だ」

パリ、恋人たちの影

今年の5月、フィリップガレル監督作品をいくつか、東京都写真美術館で観た。

 

それらの作品は、自分にはあまり合わないような気がした、詩情に満ちていたから。

 

 

パリ、恋人たちの影 を観た。

二年ほど前に発表された作品のようだ。

 

やけにはっきりと、直線上に物語は展開していく。

「影のように身勝手」らしい「愛」に、等間隔で点を打つ、心地よい速さがあった。

いくつか笑った。良かった。

 

 

麓健一 2019.7/5,7/7 live at 七針

一昨日に引き続き、今日も七針で麓健一のライブを見た。

2017年11月のライブ以来、表立った活動はなく長い沈黙を守っていた彼が、イカナイト 、 タコアフタヌーン という名を冠したワンマンライブを二日間に渡り企画した。

 

 

7/5

1.うぐいすの谷

2.バリケード

3.ダンスホールの雨

4.踊り続けて

5.郵便 #2 

6曲目以降は近年演奏されている未発表曲

 

1日目はジャズマスターを使用した弾き語り。歪み用のエフェクターを二台用意し、それらは主に曲間で使用された。

ギターリストではない、ボーカリストが弾くエレキギターの音色、フィードバック。不鮮明さ、歌に阿る音色。

彼がエレキギターを使用する事は稀だが、伴奏する手段としてアコギをエレキギターに持ち替えたという以上の相関は無いように感じた。

 

2ndアルバムであるコロニーを発表した際のネット上でのインタビューか何かで彼は、豊田道倫氏の言う「歌を作る体と歌を歌う体は違う」という感覚を自身も知覚したと語っていた。

 

彼の声に歌に聖性を見い出す人は少なくないが、彼のギターワークに言及する人は少ない。

歌が強すぎるからだろうか。

収拾がつかなくなりそうだ。

ただ単に私は彼がライブで鳴らすギターの音にいつも不満を感じているのだろう。

 

美化に収録された曲達は、やはり良かった。

未発表曲群については、例えば「ヘル」や「ペンタゴン」は最終バースのメロディや歌詞の変更が過去見られたが、この日は全ての曲が(エフェクターによる歪み、フィードバックは別として、)同様のアレンジのまま演奏された。

 

 

7/7

1.spaceship? 未発表曲

2.ロンリネス凧

3.九月 谷川俊太郎の詩に曲をつけた曲

4.椿事 未発表曲

5.二月の星 未発表曲

6.幽霊船  未発表曲

7.パフ

8.Fight Song

9.ピーター

10.葬列

11. 曲名不明 未発表曲 (2015年5月豊田道倫氏と七針で共演した時に演奏した曲)

12.たたえよたたえよ (歌唱なし)

13.ヘル 未発表曲 

14.ペンタゴン 未発表曲

 

この日、彼はアコギを使用した。

そして大半の曲でゲストミュージシャンが参加し、曲に色を添えた。

コロニーに収録された曲群については言うまでもなく、ゲストミュージシャンの演奏は奏功していた。

ただ個人的にコロニー収録曲のいくつかは、どうしても相容れないものを感じ、この日の演奏においても退屈と思う瞬間があった。

 

「ロンリネス凧」は、とても好きな曲なので、聴けて良かった。

原曲では厳かな印象すら与える特徴的な裏声を存分に響かせていたが、この日は原曲から1オクターブ下げて歌唱され、ややラフな指弾きの伴奏と相まって、素朴な愁いや親密さを感じさせるような演奏だった。

 

そういえばこの曲の歌詞は、他の曲とは少し趣きが異なり、「あなた」や「誰か」は登場しない、語るに足る出来事も感情も存在せず、孤独と向き合う事を静かに歌っている。

 

群を離れて自身との対話を繰り返し「おかしくなりそう」な世界を紐解きながら、いつしか喜劇へと誘われるような悩ましい経過を辿る。

そこにはコロニー製作時における彼の在り方の一端を窺えるように思う。

 

 

11曲目は、2015年5月豊田道倫氏と七針で共演した時にも演奏されたが、その時にはなかった印象的な後半のバースを加え、この日演奏された。

 

彼の工夫を凝らした多彩なコードワークの中でパワーコードが前面に用いられた曲は少なく、「うぐいすの谷」と「西海岸」位だろうか。

この曲では前半のバースでパワーコードが用いられた。

 

杖が無ければ歩けない僕の体、舟が無ければ帰れない私の体、と歌った後のバースでは、こじ開けるような鮮烈なメロディをもって「新しい合図」について歌われる。

 

新しい合図で別れを伝えて

新しい合図で答えを教えて

早く早く

 

最後に歌われる言葉は、「生きてみせて」なのか「言い切ってみせて」なのか、定かではないが耳に木霊する。

 

マイナー7thを積極的に取り入れたと思しき一連の未発表曲群とは異なり、美化の時期に見られたコードワークや精神性がこの曲には色濃く滲み出ていたように感じた。

しかし、言わば近年演奏されている未発表曲群に見られる捻れた寓話性らしき感覚と、美化の時期に見られた生々しい情感が混じり合っているにもかかわらず、かのメロディは彼が見つけた新しい文体のように感じられ、その印象はこの二日間にあって一際鮮明に記憶された。

 

両日共に「ペンタゴン」を最後に演奏し、余韻を残さぬよう演奏後すぐに明かりが点けられた。

 

 

この日、彼は、「美意識は嫌悪の集積」という言葉を知ってから美しさとは何か分からなくなった、と話した。

 

確かにある地点において、彼の美意識に対する困惑は、表層的な美を否定する文脈をいつしかその創作物の中に生み出していたが、むしろ彼自身が語るようないくつかの転換期を過ぎ行く中で、その類の問いには既に彼の中で返答がなされたのではないかと思う。

 

しかし彼はこれからもしたたかに目に余るものを見つけては、それらを持ち帰る事を繰り返すのだろう。

 

 

コロニー発表直後、彼自身がインタビューで語ったように、「この声はある感情的な響きを持ってしまう」「歌を構成していた要素の中でもとりわけ大きなものが感情だった」という確かな自覚を経て、彼は喜びや悲しみといった情緒的な問いではなく、むしろ理性から発せられる要請に耳を傾けながら、聖性を湛える自身の資質と知性を拮抗させ、歌が意図せず悲痛に響いてしまう事を慎重に避けてきた。

 

コロニー発表以後、彼は創作の端緒を混乱や煩悶とは別に求めたように思える。

理性をもって情緒や美を遠ざけ、彼は傍観者としてままならない世界を生きる何者かを歌に書き写し続けた。

そして彼は現実世界においても傍観者たり、「文化抱擁」なる自身のサイトも閉じられ、ただの怠慢なのか或いは主体性を敢えて隠蔽しているのか、先行きの見えない活動を続けている。

今回の二日間に及ぶワンマンライブは、機材費調達の為に企画したという。

 

 

曰く「筋肉期」「借金期」を経て現在「ラブユアセルフ期」にある彼の一年半に及ぶ不在の理由を推察する事は難しいが、「新しい合図」にまつわるメロディを聴いて私は、彼がいま自身の聖性たる資質と理性の均衡をもう一度定義し直そうとしているように見えたのだ。

そしてそこに結実の一端を見出したからこそ、彼はこのライブを企画したのではないだろうか。

 

 

 

随分長くなってしまった。

待望の日々に展望は延期された。

しかし意外と色んな事が思い起こされたらしい。

彼に対する認識を整理したくなったのは、そこに小さな予感めいたものを見たからかもしれない。

ジョナスメカス LOST LOST LOST

渋谷イメージフォーラムにて

ジョナスメカスについてほとんど予備知識ないままに鑑賞した。

 

この映画を観た後、私は自身が辿ってきた幾つもの場所や光景や出来事を思い出さずにはいられなかった。

 

そんな、そんな言葉を書けたら良かった。

しかし、残念ながら私はそんなささやかな想像性も慎ましさも持ち合わせていない人間だった。

 

 

今回の上映プログラムに関するチラシにジョナスメカス自身の言葉としてこう記してある。「私たちこそが全てに対する基準なのだ。そして私たちの生み出すものや芸術の美しさは、私たち自身の美しさ、魂の美しさに比例する。」

 

 

映し出される。

故郷を追われた人、友人、デモに参加する人、政治活動家、弟、子供、凍える「平和のための女達」、タイニーティム、ジョナスメカス、、

 

「すべてはふつうだ、まったくふつうだ。」

彼はこの映画の中で、映し出す人びとの素性を明らかにする事を忘れないが

「ニューヨークの夕ぐれ、一人の難民が何を考えているか、誰も知らない」

 

人である事の計り知れ無さを

「おお、歌え」という

 

通り過ぎる全ての事象へ限りない敬意を持ってこそ、「ずいぶん失ってしまった」記憶と対峙する彼の言葉は、いつまでも瑞々しい。

 

入口で、コメンタリー全文が配布された、良かった、何度も読もうと思った。

 

(字幕を入れることは著しくオリジナリティを損なうという彼の意向、真っ暗の画面に白い字幕が浮かび上がる事の無粋、それでも、今回の上映で、字幕をつけ、映像と共に彼の言葉を正しく理解出来る仕組みがあって、自分のような無学な人間には良かった。)

 

映画が終わった後、すぐに翻訳家の飯村昭子さんのトークが始まった。

1960年代後半から現地でジョナスメカス本人と交流があり、彼の才能と実験映画界における影響力、貢献について、当時のエピソードを交えてお話して下さったが、彼への敬意が強い為か、上手く話が展開せず、堂々巡りするような場面があった。

 

飯村さんがシネマテークで一人座席に座っていたら突如眼前に花が現れ、後ろを振り返るとメカスがいたという話を最後にされた時、カメラの前で戯けて見せた彼のあの顔、そこで笑い合う彼らの姿が目に浮かび、何故だか映画の続きを見たように、私は嬉しい気持ちになったのだ。

土曜日の午後3時。

麓健一 20150517 live at 八丁堀七針

豊田道倫さんと麓健一さんは時々、年に一度くらい、共演しているよう。

 

曲目

1.?(キスミーと歌う曲)

2.?(羊飼いの家と歌う曲)

3.?(杖が無ければ歩けない僕の体と歌う曲)

4.水晶

5.ペンタゴン

6.家族の肖像(豊田道倫カバー)

7.?(遠くの星を目指したと歌う曲)

8.ヘル

9.幽霊船

10.二月の星

 

人の体はほとんど水で出来ているという話から着想を得たという、キスミー/あなたはただの水よ、と歌う一曲目。

緩やかに上昇するコードストロークに乗せて、愛が私に降る/何故か笑ってしまう、と歌う二曲目。

近年演奏され続けている鈍色の新曲群とは異なり、その煮詰まった文脈からそっと抜け落ちたような湿度の低さ、そして諦念を盾に停滞から俄かに抜け出す兆しをその中に感じた。しかし上記二曲はその後あまり演奏されていないようである。

 

フラフラと取り留めもない話を挟みながら演奏を続けていたが、後ろに控える豊田さんから、もう分かった、と、やにわにMCを切り上げられ、二月の星という小曲を最後に演奏した。

慎ましく爪弾かれる循環コードには思案の果てに二月の澄んだ星空と対峙する静けさを歌い、短いながら確かな余韻を残す。

工藤礼子 20130714 live at 幡ヶ谷フォレストリミット

なつみかん と銘打ち、マヘル、工藤礼子さんのライブが3日間、幡ヶ谷フォレストリミット、新宿裏窓にて行われた。


前日7月13日のマヘルのライブを観に行く時、新宿から幡ヶ谷へは京王新線で行かなくてはならないが私は電車音痴だったので上りと下りでそれぞれ乗り過ごした為に、遅刻した。

翌日は中野の自宅から自転車で中野通りを南下、甲州街道を左折して会場へ向かった。


曲目

1.NGC 3603

2.くも

3.せみ

4.?

5.深海魚

6.ひとりで夕日を

7.ジャスミン


伴奏

ピアノ 工藤冬里

クラリネット 金田一3c123

トランペット 大谷直樹

ドラム 高橋朝


一曲目、1音目を何度か繰り返す。

それはきっと歌のキーを合わせる為に行われ、結果的に一番高い音を選び取って歌は始まった。

不意の始まり、断絶は、強い遠心力を持って、狭い人影から歌を引き離したように感じた。


わたしがいなくなっても夏は続いていく

わたしでない声が夏をつくる と歌う せみ という曲


最後の曲では伴奏者の名前を呼んで謝辞を述べられた。

higuchi hisato 20170616 live at 高円寺円盤

以前、樋口寿人さんのライブを円盤で観た時は大雪が降っていた。

狭くて明るいので円盤でライブを観るのは少し苦手だ。

三組中一番目に演奏。

 

曲目は以下。

1.きえものエンドレス

2.新曲?(穏やかな雰囲気の曲)

3.幸福の電波

4.新曲?(さまようおばけと歌う曲)

5.痛み運ぶ器

6.んんンMusic

 

彼のライブを初めて観たのは2013年、丁度「Otomeyama Bottoms」を発表した頃。それから現在に至るまでの間に彼の歌に対する意識は徐々に変化しているように感じた。

 

この日の演奏について、円盤という生音に頼らざるを得ない環境が作用した面も大きいと思われるが、少し声を張るように歌われたそれは、PSFから発表された初期作品集で聴くことの出来るあの歌声、トーンに近いと言える。

 

同年2月に逝去されたPSFレーベルオーナーの生悦住さんに捧げられたであろう曲をこの日の最後に演奏した。

その曲の歌詞は彼のサイトに掲載されており、故人を偲び、彼岸に想いを寄せる心境を率直に表現している。

またギターアレンジも2コードの穏やかな曲調から、彼らしい繊細かつ不穏を感じさせるコードへと進行していき、ふたつの世界を想起させる。

 

彼のライブを初めて見たのは八丁堀七針。ストラトキャスターをアンプへ直に繋ぎ、指で弦を撫でるように爪弾く。

なんて澄んだ響きだろうと、雑味のない凛としたその音は今も鮮やかに蘇る。

 

翻って円盤で聴いたそれに彼の感性の宿る余地はなかったように思う。

仮に歌唱に焦点を当てたいという意図があったとしても、小型アンプから響く中核をスポイルされた脆弱な音は、彼の歌を不自然に輪郭付け、映し出す情景をいくらか硬直させてしまったような印象を受けた。

 

 

 

「消え続けるエコー」は素晴らしい作品だと思う。

貧しい想像力を持って無責任を承知で書く事は、もし生悦住さんがこの作品の完成を待つ事が出来たならきっと、初期作品集を凌ぐ樋口さんの最高傑作としてこれを評したのではないだろうか。